学級の同質性

 今の学級制は、多くの場合、「人間関係の流動性」があまりにもなさすぎだと私は思います。その上、クラスの団結、仲間意識、といったものが強調されすぎて、そこから抜け出すことがなかなか許されない。しかし、いじめが顕著な例ですが、そのことで自らの自由を著しく傷つけられている子どもたちが多数存在しているのも事実です。そこで重視されているのは、「相互承認」ではなく、”ノリ”や”空気”です。”ノリ”や”空気”を乱さないということが、暗黙のルールとされているのです。
 社会学者の土井隆義氏によると、今日のいじめの多くは、異質な人間を排除しようとするものというよりは、「同質な者同士による常時接続の息苦しさに風穴を開けようとするもの」として起こっています。実際、いじめは疎遠な間柄や日頃から仲の悪い子どもたち同士の間で起こるというよりは、「よく遊ぶ友だち」の間で起こることの方が、圧倒的に多いことが確認されています。
 なぜ、八十年代半ば頃から、人々はいじめを認知し、しかもそれを社会問題と捉えるようになったのでしょうか。それは、そこに大きな社会構造上の変化があったことを指摘することができるでしょう。学校・学級は、この構造上の変化をある意味で最も純粋な形で映し出した空間として、人々に認知されることになったのです。日本社会を支えてきた価値観は、1980年代半ばあたりから急速に多様化していくことになりました。それに伴って、学校における人間関係にも大きな変化が見られるようになります。明確な序列がなくなった今、クラス内の人間関係もまた、「同質」であることがかつて以上に求められるようになったのです。
 要するに、今日多くの子どもたちは、閉鎖的な空間の中でますます同質性の中に沈み込み、その中でできるだけ摩擦を起こさないよう、”空気”を読み合いながら学校生活を送っているのです。それは、ある意味では「一皮むけば簡単に傷つきやすく、じつは非常に危うい関係」です。少しでもその同質性が侵されたと思われれば、侵したものは容易にいじめや排除の対象になってしまうからです。

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