教育の力

熊本大学准教授の苫野一徳氏の著書「教育の力」を読んだ。
きっかけは、下記のインターネットの記事を読んだことから。
いじめや固定的役割は異年齢教育で弱まる
異年齢教育によりいじめが生まれるのではなく、異年齢教育によっていじめがなくなるという話はとても興味深い。
国立教育政策研究所の論文にも同様の内容があり、これは正しいのだと思う。
「教育の力」は、保育にもとても関係するものが多くあったので、今日から少しずつ掲載して行きたい。


《そもそも教育とは何のため?》

そもそも教育とは何か?そしてそれはどうあれば「良い」と言いうるのか。
そのためには、まず人類の歴史を簡単に振り返ってみなければなりません。というのも、公教育が登場したのは長い人類史上においてまだわずか200年ほど前のことであり、そしてそれは、まさにその長い歴史を経て私たちがついに作り上げた、人類最大の発明のひとつであったからです。
人類がそれまでの狩猟採集生活から、定住・農耕・蓄財の生活へと徐々に移行していくようになったのは、約1万年前のことと言われています。蓄財の始まりは、その奪い合いの始まりでもありました。人類は約1万年前より、いつ果てるともしれない戦争の時代に突入しました。この繰り返される命の奪い合いを、どうすれば原理的に終結させることができるだろうか。いつの時代も、これは人類最大の課題の一つでした。二百数十年前、その原理的な答えが、ついに近代ヨーロッパにおいて見出されることになります。それは次のような原理でした。
なぜ、人間は戦争を止めることができないのか?それは、私たち人間が自由になりたいという欲望を持っているからだ。1万年もの間、私たちが戦争をなくすことができずにいたのはそのためです。では、私たちが本質的に「自由」への欲望を持ってしまっているのだとするなら、どうすればこの欲望のせめぎ合いを軽減し、戦いを終わらせ、そして一人ひとりが十全にそれぞれの「自由」を達成することができるようになるのでしょうか。この問題を徹底的に考え抜いたのは、19世紀ドイツの哲学者、G.W.F.ヘーゲルによって、ついにその集大成が示されることになりました。ヘーゲルが辿り着いた結論はこうです。
わたしたちが、自由になりたいのであれば、「自分は自由だ、自由だ!」などと、ただナイーブに自分の自由を主張するのではなく、あるいはそれを力尽くで人に認めさせようとするのでもなく、まずはいったん、お互いがお互いに、相手が自由な存在であることを認め合うほかにない!これを「自由の相互承認」の原理と言います。私の考えでは、今なお最も根本的な社会の原理というべき考え方です。もちろん、この原理を完全に実現するのは極めて困難なことです。しかし、それでもなお、私たちが互いの命を奪い合うことをやめ、自らができるだけ生きたいように生きていけるようになるためには、この「自由の相互承認」の原理を共有し、そしてこの原理を、どうすればできるだけ実質化していけるかと問うほかに道はないはずなのです。

コメント

人気の投稿