相互承認の感度

 それゆえ、公教育によって育まれるべき教養は、読み書き計算をはじめとするいわゆる「学力」だけではありません。自由に生きるためには、他者の自由もまた認めることができなければなりません。したがって公教育は、子どもたちのうちに、この「自由の相互承認」の「感度」もまた、重要な教養として育んでいく必要があるのです。
 ここで言う「自由の相互承認」の「感度」は、どちらかと言えば、激しく称賛すると言うよりは、他者の存在をまずは認める感性・感度のことと考えておいて良いでしょう。たとえ価値観や感受性がひどく異なっていたとしても、それが自分や他者の自由を著しく侵害するのでない限り、承認する。教育は、子どもたちにこのような「感度」を育むことで、「自由の相互承認」を原理とした社会を実質化していく使命を担っているのです。
 保育園や幼稚園の子どもたちでさえ、この相互承認の感度を経験を通して自ら学んでいます。最初は、「おもちゃ貸ーしーてー」「だーめーよ」と、互いに押しのけあっていた子どもたちも、やがてお互いの存在を認め調整し合わなければ、自分の自由もまた失ってしまうことに気がつきます。お互いが気持ちよく生活できるためにこそ、まずはお互いに認め合い、その上で調整し合う。そのような知恵を、子どもたちは自ら育んでいるのです。そして、教育は、そうした子どもたちの自然に育まれる「相互承認の感度」を、より十分に、そして自覚的に、育んでいく必要があるのです。
 しかし、たしかに学校は本来「自由の相互承認」の感度を育む場所であるべきなのですが、現実には、残念ながらむしろこの感度を掘り崩す場所にもなってしまっている側面があります。いじめ、体罰、空気を読み合う人間関係、「自由の相互承認」の土台であるべに学校が、むしろ逆に、相互不信の土台になってしまっている側面もあるのです。

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