教育の力〜公教育は何のため?〜

では、自由とは一体何か?ヘーゲルの考えを参考にして、次のようにいいたいと思います。たしかに私たちには多かれ少なかれ、わがまま放題をしたいという欲望があるでしょう。しかし、そのようなわがまま放題の状態を、私たちは「自由」というわけにはいきません。というのも、私たちのわがままは、多くの場合、他者の自由を侵害することになり、その結果、相手の攻撃を招いたり争いになったりと、かえって自らの「自由」を奪うことになってしまうからです。先述したように、人類の戦争の歴史とは、まさにこの剥き出しの「自由」の争いの歴史だったのです。
それゆえ、「自由」とは、自らが「自由」に生きるためにこそ、他者の「自由」もまた承認する必要があるのだということを、徹底的に自覚するところにあるのです。
この「自由の相互承認」の原理が理解されてはじめて、私たちは公教育がいったい何のために発明されたのか、理解することができるようになります。社会を「自由の相互承認」の原理に基づいてつくっていくこと。これだけが戦争を終わらせ、私たち一人ひとりの「自由」をできるだけ十全に達成させることができる根本条件でした。では、この原理を、私たちはどうすれば、できるだけ現実のものとしていくことができるのでしょうか。最も重要な最初のステップは、「法」を設定することです。「法」によって、すべての市民が対等に「自由」な存在であることを、まずは理念的に保障するのです。しかし、それだけでは十分ではありません。公教育はここに登場するのです。
つまり、公教育は、全ての子ども(人)が「自由」な存在たりうるよう、そのために必要な力を育むことで、各人の「自由」を実質的に保障するものなのです。
もっとも、歴史的にいって、公教育の本質が実際に十分に目指されたことは、残念ながらありませんでした。日本について言えば、公教育は周知のように、「富国強兵」のために明治政府によって取り入れられたものです。公教育は文字通り、「国のため」という性格を強く持ったものとして登場したのです。
しかしそれでも、私たちは、公教育は本来、個々人が「自由」になるためのものとして、そしてそのことで同時に、社会における「自由の相互承認」の原理もまたより実質化されるようなものとして構想されたのだということを、今こそ改めて知っておくべきです。
つまり、公教育は、すべての子どもに「自由」に生きるための力を育むことを保障するものであると同時に、社会における「自由の相互承認」の土台となるべきものなのです。

コメント

人気の投稿